执笔者プロフィール

丸岛 和洋(まるしま かずひろ)
东京都市大学共通教育部教授専门分野/歴史学、日本中世史

丸岛 和洋(まるしま かずひろ)
东京都市大学共通教育部教授専门分野/歴史学、日本中世史
现在の国际情势は、安定とはほど远い。しかし、「いつから、なぜ不安定化したか」を考えると、すぐに答えは出ない。同时代に生きる人々にとって、いつが転换点であったのか、何が原因であったのか、容易にわかるものではない。
戦国时代?戦国大名を研究しているというと、织田信长や豊臣秀吉の事绩についてよく寻ねられる。その会话は楽しいが、戦国时代の本当の魅力は、中世という暴力による解决を当然视する时代から、暴力行使に抑制的な近世という新たな时代に移り変わる、その変化を考察できる点にある。
ただともすれば、「整然としたストーリー」を描きそうになる。学问は论理的な営みだが、実际の人の动きはそうではない。日吉で学んだ政治学で、もっとも记忆に残っているテーマは「人间は常に合理的行动を取るか」であった。
以下では、江戸幕府が豊臣秀頼を灭ぼした大坂の阵を见直してみたい。実は徳川家康は、はじめから豊臣秀頼を灭ぼそうとしていたわけではない。秀頼には大坂城を出て、集めた牢人を解散し、大和(奈良県)へ移ってほしい、そのうえで江戸幕府体制下の一大名に落ちついてもらいたいと考えていたようだ。なお大和は、かつて秀頼の叔父豊臣秀长が治めた国で、豊臣ゆかりの地といえる。悪い条件ではない。
ところが家康の意図は、豊臣秀頼と生母淀の方に通じない。若い秀頼は周囲の过激派に引きずられ、幕府との讲和を取りまとめようとしていた穏健派を追放してしまった。交渉责任者の追放は、现代で言えば大使馆闭锁だ。家康の眼には外交拒絶と映るし、秀頼も慌てて弁明をしている。つまり大坂冬の阵は、家康すら望まない形で始まったともみなせる。
だから讲和交渉は冬の阵后も続いた。夏の阵直前、秀頼母子は、家康の要求を受け入れようと决断する。しかし讲和条件の根干である牢人解散を実施できない。牢人の突き上げを抑えられないのだ。秀頼に当事者能力なしと判断した家康は交渉を打ち切り、夏の阵において豊臣家を灭亡させる。
しかし秀頼切腹は家康の命令ではない。2代将军徳川秀忠の指示である。家康は决断を息子に委ね、「逃げた」のだ。
大坂の阵?豊臣秀頼灭亡の过程からみえてくるのは、谁の思惑通りにも进んでいないという実情だ。分かりやすい回答を求める姿势こそが、もっとも忌避すべきものなのだろう。
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。