执笔者プロフィール

増田 弘(ますだ ひろし)
その他 : 立正大学名誉教授塾员

増田 弘(ますだ ひろし)
その他 : 立正大学名誉教授塾员
抑留と復员は、戦争败者の极限ドラマである。论より証拠。シンガポール冲にレンパン岛という孤岛がある。日本人捕虏约8万人はこの岛に送りこまれた。ここは船が无い限り脱出不可能で、警备は不要、日本兵が死んでも知られることはない。一石叁鸟の便利な自然収容所だった。日本军兵士は木の若芽、ヘビ、ネズミ、バッタ等を1週间で食べ尽くすと、マラリア、アメーバ赤痢、脚気などの患者が3万人に达した。この危局に至って、ようやく英军は救助の手を差し伸べた。
また日本军兵士は戦犯疑惑を晴らさねばならず、被害を受けた现地の女性阵の前を、一人ひとり进み出て、〝面通し?をさせられた。もし「この男だ」と証言されたら最期、监狱入となり、极刑となった。正式裁判などごく一部にすぎなかった。
他方、连合国侧でも日本军捕虏への対応に温度差があった。英军のマウントバッテンはポツダム宣言に规定された日本军兵士の早期送还を无视し、日本人の労働力を现地再建のために最大活用した。日本人をジュネーブ协定に基づく「戦争捕虏(POW)」とは认めず、「日本降伏者(JSP)」と见なし、无赁労働を强要した。兰军もこれに同调した。
これに対して米军のマッカーサーは、国际规定の遵守を英?兰军に强く求め、早期復员と捕虏への赁银支払いを迫った。米ソ冷戦下、英兰が第2のソ连となることを恐れたからでもあった。吉田首相もマッカーサーの権威を借りて日本人の復员を恳愿した。结局国际世论の后押しもあり、英?兰侧は復员完了と赁银支払いに同意した。だが赁银の计算はしても、支払い自体は日本政府に负担させた。最后まで英外交は狡猾だった。
それでも劣悪な条件下、日本军将兵は多くの教训を得た。东南アジアの占领行政はほぼ失败し、大东亜共栄圏构想の欠陥を思い知らされた。「鬼畜米英」と敌视した米国人の豊かな人间性や物质文明に接して、日本人は自己を相対化できた。科学技术の重要性、军部の権威主义的体质、败戦后豹変した日本人の国民性など、自省の念も生まれた。
はたして日本人が得たこれら教训は、今の日本社会の血肉となっているのであろうか。
増田 弘
庆应义塾大学出版会
272页、2,700円(税抜)
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。