塾监局长 高野 仁
みなさん、こんにちは。
今回、「塾长室だより」を担当させていただく高野仁と申します。
「あれっ?今まで、伊藤公平塾长が书いていたから楽しみにしていたのに、いったい何者だ?」と思われる方も多くいらっしゃるかもしれませんので、私が今回、本稿を书かせていただくことになった経纬を少し绍介したいと思います。
庆应义塾には、塾长と10名の常任理事がいて、学校法人の常务を执行しています。この11名のメンバーに加えて塾监局长という立场の私が常任理事会に出席しております。このたび、「塾长室だより」の执笔は塾长以外のメンバーも担当することにしようという提案があり、どういうわけか、私がその第一号として指名されたというのが、ことの次第です。
塾监局长というのは、皆さんも闻き惯れない职名かと思います。私も、様々な会合で自己绍介するときに困ります。详しく説明するのも时间を取ってしまうので、「塾监局长というのは、他大学でいえば事务局长に相当するものとお考えください。」と绍介させていただいております。
せっかくの机会ですので、ここで「塾监局」について、少し説明をさせていただきたいと思います。「塾监局」は、现在、二つの意味を持っています。ひとつは「建物の名称」です。叁田キャンパスの図书馆と図书馆旧馆の间にある3阶建ての建物を「塾监局」と称しています。(キャンパスマップ参照(12番の建物))「庆应义塾史事典」(以下、塾史事典と记す)によると、ゴシック风の建物、大正15年(1926年)9月の竣工、戦中から戦后の一时期には教室と事务室に併用されていたこともあった、とあります。
塾监局の正面入口は东门の侧を向いています。竣工当时は、东门が正门でしたから、东门を入るとその正面に见える建物でありました。今では、塾长と常任理事の执务室にいくつかの事务部门や会议室がある建物として使われています。1阶に入ると昔の事务室の窓口の名残を见ることができます。现在は、事务室内にオープンなカウンターを设けて诸対応をしていますが、当时は小さな窓口で事务の対応を行っていたのです。
上の写真から、その様子がわかるかと思います。
础贰顿の文字のところの小さなカウンターがありますが、この縦长の窓の一番下が开いて、そこで书类のやりとりなどをしていたわけです。
私が庆应义塾に职员として入职した时には、塾监局の会议室に饰られている福泽先生の絵の一部に落书きの文字が刻まれていました。近くに寄って见なければ気づかない程度のものでしたが、纷れもなく落书きでした。昭和40年代の学园纷争の际、庆应义塾では塾监局が占拠され、その时に占拠した学生によって书かれたものと先辈职员から説明を受けました。次の写真のとおり、今では修復されていてその痕跡はわかりませんが、现在の塾监局という建物は、昭和においては戦争と学园纷争という庆应义塾の激动の歴史を経験してきた建物なのです。そして、时は昭和から平成、令和と移り変わり、庆应义塾の歴史を见続けているのです。
さて、「塾监局」のもう一つの意味は、事务组织の名称です。塾史事典の记述を引用しますと「叁田移転当初は(中略)『义塾の事务をとるいくつかの部局の一つ』にすぎなかったが、その后时代を経るに従い塾监局という呼称は、事务机构全般を统括する意味で使われるようになり、今日に至っている。」とあります。
さきほど他大学の事务局长に相当するものと绍介させていただいた理由がおわかりいただけるものと思います。
「塾监局」の绍介だけで、多くの纸幅を割いてしまいましたが、この名称に歴史があることを感じていただけたならば、私もうれしく思いますし、私自身この「塾监局」という名称に爱着を持っています。
塾监局长は、「庆应义塾塾监局职制」において「塾长の命を受けて义塾全般の事务を统括する。」と规定されています。今までの「塾长室だより」でも、また、これからの「塾长室だより」でも、塾长、そして常任理事から様々な义塾の施策が语られることと思います。
その施策を実施する上での事务を统括するのが私の仕事ということになります。
以前、塾监局长のことを「庆应义塾の大番头」と言った教授がいました。现代の视点では少々时代掛かった言い方ですが、その当时、私は「いい得て妙な表现だ」と感じました。
私が现在大番头かどうかはわかりませんが、この「塾长室だより」が発信する内容の阴に「塾监局」という组织があることを覚えていただければ幸いに存じます。