执笔者プロフィール

北原 聡(きたはら さとし)
その他 : 関西大学経済学部長、同教授塾員 専門分野/ 近代日本経済史

北原 聡(きたはら さとし)
その他 : 関西大学経済学部長、同教授塾員 専門分野/ 近代日本経済史
大都市大阪で渡し船が活跃していることをご存知だろうか。过去の交通手段と思われがちな渡し船だが、大阪市では市営の渡船场が8カ所あり、无料で利用できる。観光用ではなく地域の人々のための现役の交通手段である。しかも、桥が架けられ廃止されることが多いなか、大阪市の渡し船は8カ所のうち4カ所で架桥后も存続している。これにはどのような背景があるのだろうか。近世まで时代をさかのぼってみていこう。
16世纪后半から17世纪にかけて形成された大坂の市街地には、多くの堀川が开削され、沿岸海运と河川舟运からなる物流の中心として、淀川とともに重要な役割を果たしていた。「天下の台所」大坂が「八百八桥」と言われた所以である。こうした都市内水运は近代以降も発展的に継承され、工业都市大阪の発展とともに、大川や安治川、木津川など淀川下流の沿岸部には大小各种の工场が立地して、原料や製品の集散に舟运が活用された。そして、舟运が活発化すると架桥が难しくなり、渡し船が交通手段として重要性を高めたのである。交通量の多い渡船场では输送の限界も生じ、1940年代には安治川に河底トンネルまで造られ、现在でも使用されている。戦后になると、モータリゼーションの进展を背景に、大阪中心部の堀川は1960年代までにほとんどが埋め立てられ、今では地名などにその名残を留めるだけになったが、淀川下流部は工业地帯として存続し、河川舟运も一定の役割を果たし続けている。安治川では、现在でも舟运に配虑した桥脚の无い桥を架ける必要がある。
そこで、冒头に绍介した架桥后も生き残った渡し船に戻ろう。いずれの箇所の桥も、大型船が航行できるよう桁下が30?50mに及んでいるため、歩行者の日常的利用には适さず、住民の反対もあって渡し船が存続した。淀川下流域の工业地帯の河川では现在でも舟运が优先され、歩行者や自転车が利用できる桥を架けることが难しいのである。
以上の话は、数年前に大阪の都市内水运を调べた际の副产物である。どのような地域も、长い歴史の中で、人间がさまざまに働きかけ、手を加えることで形作られてきた。土地や地域に刻まれた来歴は、思いがけない形で现れることがあるものだと、あらためて认识した次第である。
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。