画像:体育会山中山荘
山梨県の山中湖畔(南都留郡山中湖村平野)には体育会の山中山荘や図书馆の山中资料センター、さらに健康保険组合のコテージがある。庆应义塾と山中地区との関係は1926(大正15)年10月にさかのぼる。当时、富士山麓土地株式会社の堀内良平社长から约1万坪、地元有志からと合わせて约2万坪を运动场用地として寄付されたのである。
それを受けて义塾では设备に着手し、翌夏には仮运动场と天幕宿舎を设けて蹴球部と弓术部が合宿を行い、秋には浴场、艇库、井戸も作られた。1928(昭和3)年には宿舎の一部も完成し、山中山荘と名づけ、7月22日に山中湖运动场开场记念茶话会が开催された。当日は生憎の雨天だったが大盛会だったそうだ。この年、山中湖で夏季を过ごした教员学生は极めて多数と记録にある。
堀内良平は甲府市と富士市の间に鉄道(现闯搁身延线)の敷设を计画し、1928年に実现したことをはじめ、富士山麓の开発に尽力した人物で、山中湖周辺の観光地としての活性化を狙い、学生を诱致することがそこにつながると考えた。そこで大学寮建筑の働きかけを行った。息子が义塾出身であったことが、前述の寄付につながったと思われる。义塾だけでなく、东京大学、东京文理科大学(现筑波大学)等々も寮建筑を行い、夏季は賑わいをみせた。「富士五湖」の名づけ亲も良平であった。1927年、新闻社主催の「日本新八景」湖沼の部にこの名称で応募し、周辺に投票の働きかけをして见事1位となり、记事や映画で全国に富士五湖は绍介されることとなった。
山中山荘は开设10周年の1936年に叁田の3号馆を移筑し、戦后1951年には别馆木造2阶建てを改修、また従来の物置を女子寮に改修した。翌年には本馆东侧に木造平屋の女子寮を増设、さらに翌年には环境保持の见地から隣接の土地7,000坪を购入した。体育会各部のトレーニングの场としてだけでなく、一般塾生の利用、文化団体连盟のサークルの新入生歓迎合宿などにも利用され、湖畔でキャンプファイヤーを囲んだ学生も多い。
1982年、義塾創立125年事業で、半世紀を経て老朽化した山中山荘の再建が図られた。200名収容の合宿棟やグラウンドの増設などがなされ、現在に至っており夏季には蹴球部を中心に一贯教育校も利用している。
1994年には敷地内に、健保のコテージが开业し、50万册収容可の図书馆の资料センター1号栋が开设、その后2016年には2号栋も运用开始した。
また、2007年には山梨県及び富士吉田市と义塾の连携协定が结ばれ、富士山麓の森林文化を基轴とする地域资源を活かす取组みが始まった。2013年、富士山に浸み込んだバナジウムを多く含んだ软水を活かした「庆应の水」が诞生した。
(元広报室长 石黒敦子)
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。