画像:地下道内部通路
信浓町キャンパスの敷地は、道路を挟んで1号馆や2号馆がある「信浓町敷地」と北里记念図书馆や3号馆がある「大京町敷地」にわかれている。2号馆と3号馆の间のブリッジで道路を渡らずに行き来できるが、敷地を隔てている道路の下に、现在は本来の机能として使われていない地下道があるのをご存知だろうか。
臨時建築物であった大京町の西病舎の使用期限が1931年であるため、これを解体して別館(着工時は同じ西病舎と呼称)が1932年に建設された。この建設時に「西病舎在来病棟連絡用地下道」として同時に建てられた施設が「信浓町の地下道」である。地下道通路部分は長さ23m、幅2.1mのスロープ状である。信濃町側は、本館と呼ばれていた病棟のうち「は号病棟」に最も近く、階段のほかエレベーターで地下へ降りることができた。大京町側は別館の地下階に繋がっていて、別館正面玄関の車寄せ部分には、地下道へ光を取り入れるトップライトが設けられていた。本誌、2018年12月号掲載の慶應看護100年インタビュー「戦时に小泉信叁先生を看护して」では、夜间の空袭の际に真っ暗な地下道を通って别馆へ患者さんを避难させた苦労话が语られており、多くの人が通行していたことがうかがえる。
第2次世界大戦で大学病院は6割以上が被害を受け、「は号病栋」も焼失した。その跡地に1948年に病院本馆が建设されたが、この本馆とも地下道は隣接しており、大京町侧との通行に使われた。
义塾创立125年记念の最大の事业として1986年に竣工した大学病院新栋(现在の2号馆)では、地下阶のドライエリアから出入りする形で地下道は接していた。看护部の方によると患者さんが通ることはなく、病院教职员や学生が使用していたが、怖いので看护师と厚生女子学院生は雨の日くらいしか使用せず、全体として利用者は少ない印象とのことであった。また、别馆病栋へ食事を运ぶカートも通行していた。
2012年に竣工した3号馆(南栋)の计画の际には、この地下道の活用について诸々検讨が行われた。しかし、天井が低い上にスロープ勾配がきつくストレッチャーなどの通行には适しておらず、何より3号馆侧に地下阶がない计画になったことから、通行路としての利用は断念して、大京町敷地への电気配管を通すパイプスペースとして有効活用することとした。2号馆侧の扉はそのままであるが3号馆侧はコンクリート壁で闭ざされている。
こうして信浓町の地下道は、その本来の役目を終えた訳であるが、間もなく築後90年となり、キャンパスでも予防医学校舎の次に古い施設である。その内、信濃町キャンパスで最も古い歴史的施設になるかもしれない。
(塾监局参事 矢ノ目 优)
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。