1966(昭和41)年1月、永沢邦男塾长の諮问により叁田研究室建设计画委员会が设けられ、长年悬案だった新研究室実现がにわかに现実のものとなった。第1から第5研究室と研究室が各所に分散している现状は学问研究に、そして教育にも重大な欠陥があるとしてのことだった。10月末には「建筑位置は第3校舎ならびに第1研究室の场所、地上7阶地下2阶、2阶より上へ文?商?経?法の各学部の研究室を配置し、各学部の床に直结した书库を持つ」と基本设计案をまとめて委员会は解散した。初めに西校舎北侧に建つ第3校舎を解体して第1次工事を行い、隣接する第1研究室内の施设を仮移転したのち、取壊して残り半分の建设を第2次として実施、4学部が集中する新研究室を建设するという计画だった。
翌57年3月、南校舎ピロティに16の教室と共同研究室が新设されたのち、第3校舎が取り壊され、5月22日、新研究室の地镇祭が行われた。翌年7月末に西侧半分が竣工、夏季期间に移転が実施された。第1研究室の个室と共同研究室の大部分はそこへ移ったが、第2、第5研究室や第1校舎への仮移転も行われた。
この间、67年1月から、别途研究?教育情报センター构想も进められていた。それまで独立して行われていた研究室と大学図书馆の図书?资料の収集から提供までを1つの组织で运営することでサービスの质的向上をめざすものだった。新研究室の建设に合わせて、叁田の研究室図书资料と図书馆図书资料の一元化を図るため、新研究室の図书馆寄りの东侧に书库を设け、図书馆との间に空中の连络通路を作ることも计画された。
そうこうして69年11月、白壁がまぶしい新研究室は竣工した。ちょうど大学立法纷争が终结した翌月で、长く続いた学生纷争に一旦终止符が打たれた时でもあった。正面の数段の阶段を上り、ドアを入ると左手に受付、その奥には4学部の学部长室が并び、全教员のメールボックスや电话交换室も设けられた。突き当りの壁には在室确认の表示板があって、学部ごとに教员名が并び、点灯していると在室とわかった。右手の教员谈话室では学部を超えた教员の交流や外部の人との面会が行われていた。右手のエレベーターから図书馆寄りの东侧は研究?教育情报センターとなり、地下には本部が置かれた。1阶から上の阶には、叁田情报センターの収书?整理といったテクニカルサービス部门と旧来の研究室図书の书库や法学资料室、経商资料室が配置された。连络通路は3阶に设けられた。
新研究室は「新研」と呼ばれ亲しまれたが、2000年、建物に「新」をつけない方针が出され、単に研究室と呼ばれるようになった。その顷になるとまた研究室不足が生じ、新新研の要望も语られるようになった。
(庆应义塾元広报室长 石黒敦子)
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。