画像:第二研究室
叁田キャンパスの研究室は、1969年末に竣工し、长く新研究室と称された。そこには叁田の文?経?法?商の四学部の教员の研究个室がフロアを分けて配置され、1阶の教员谈话室では、学部を越えた教员の交流がなされている。
それ以前、叁田には第一から第五の5つの研究室が设けられている。叁田の研究室计画の端绪は大変古く1937年だった。その年の9月、新校舎の第一校舎が竣工し、続く第二期工事として研究室建设が予定されたが、日中戦争勃発等で见送られてしまった。研究室は塾监局の一部や第一校舎などに设けられ続けた。鉄筋校舎を改修して第一研究室が开设されたのは1951年、研究室栋実现まで実に15年近くを要したことになる。
この改修に至るまでも新たな研究室建筑の努力があった。戦后になって研究室建筑が急务となり、义塾では叁学部の研究室とゼミナール小室用に1000坪の仮建筑工事费约500万円を算定し、初年度支出として120万円を予定した。塾员间でも募金活动が行われたが、建设実施にはなかなか至らなかった。そうこうしているうちに第二(五号馆)、第叁校舎(四号馆)が竣工、教室不足が解消され、鉄筋校舎を研究室へ改修する案が再浮上したといえよう。
第一研究室に改修された鉄筋校舎は1920年に予科校舎として竣工した我が国最初の鉄筋の校舎であった。コの字型で両翼の内侧に玄関のある构造だった。その后、高等部、工业学校の校舎として使用され、また戦灾で校舎が焼失した普通部や中等部(商工学校)も一时使用していた。1948年开讲の通信教育部事务室や高等学校も一部を使用するなど、戦灾で多くの施设が焼失したなか、多様な使われ方をしてきたといえる。
こうして第一研究室が1951年4月に诞生したのに引き続き、同年8月には第二研究室(ノグチルームを1阶に配置し、新万来舍とも呼ばれた)が、翌年には第叁研究室が竣工した。谷口吉郎デザインの第二、第叁には教授の研究室が置かれ、第一には助教授、助手、院生らの研究室のほか、研究书库が设けられた。1954年の福泽先生诞生记念会当日、第一研究室のコの字の内侧に福泽諭吉胸像が除幕された。以来、67年の撤去まで卒业记念写真等の撮影场所として人気となった。
第一から第叁研究室建设后も研究室不足は続き、1959年5月には、创立100年事业で建设された南校舎5阶に第四研究室が设けられた。さらに65年1月には、第一校舎屋上に軽量鉄骨の平屋叁四室の第五研究室が设けられ、第一研究室から54名が引っ越した。こうした叁田山上に分散する研究室体制を抜本的に解决する设计计画委员会はその翌年に発足することとなる。
(庆应义塾元広报室长 石黒敦子)
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。