纲町グラウンドに入ったことのない塾员の方も多いかもしれない。叁田キャンパスにほど近く、纲町叁井倶楽部の里手に位置するが、明治36(1903)年、叁田山上にあった运动场が狭くなったため、塾长鎌田栄吉が侯爵蜂须贺茂韶(しげあき)所有地を购入、そこを义塾の运动场としたことに起源がある。
现在、柔道场、剣道场、弓道场を持つ纲町武道馆や相扑道场、空手道场などがあり、体育会各部の拠点となっているほか、中等部の体育の授业やクラブ活动が行われている。
この綱町グラウンドに早庆戦100周年记念碑が建てられている。第1回の早慶野球戦は明治36年11月21日、この綱町グラウンドで行われた。同月5日の早稲田大学野球部から義塾に届いた「挑戦状」に「貴校と当校とは是非共マッチを致す可き者」と塾野球部は応答したのであった。結果は、主将だった宮原清(後に日本社会人野球協会〔現日本野球連盟〕初代会長)やエース桜井彌一郎らの活躍で11対9で義塾の勝利。その後長く続くことになるライバル校同士の戦いを制したのだった。
约3,000人の観众を集め、なかなかの好胜负であったことから、早庆戦は翌年より春、秋に1试合ずつ行うことが取り决められる。ところが前年秋から3回胜负となった明治39年、1胜1败となり3回戦が行われる予定であった11月11日、両校応援団の热狂が极に达し、いかなる事态を引き起こすかもしれないありさまとなって、义塾と早大侧は协议し、试合を中止することとなった。
当时叁田山上は大変な騒ぎだったようだ。当时学生で寄宿舎の寮长であった高桥诚一郎の回想によれば、鎌田塾长が早庆戦中止后、寄宿舎生が不穏の挙に出た责任をとって寮长は退舎しろ、という问题にまで発展したそうである(「叁田评论」『新编随笔庆应义塾』所収)。その后、早庆野球戦は大正14年の復活まで约20年间开かれることはなかった。
さて、この早庆戦100周年记念碑だが、平成15(2003)年11月21日、第1回早慶戦からちょうど100年目となる日に除幕式が行われた。式では早稲田からの挑戦状と慶應からの返書の交換が再現され、その後26日には明治神宮球場で記念試合が行われている。
かように歴史を刻んだ早庆戦の起源が纲町グラウンドであったわけだが、第1回の早庆ラグビー戦も大正11年11月23日、纲町グラウンドで开催されている。明治39年の野球戦以来の早庆両校のスポーツ交流禁止は、このラグビー早庆戦によって再开された。
綱町グラウンドが日本のスポーツ史に残る場所であることは間違いない。 (編集部)
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。