执笔者プロフィール

近藤 祐(こんどう ゆう)
その他 : 文筆家塾员

近藤 祐(こんどう ゆう)
その他 : 文筆家塾员
现代社会に生きる私たち、特に都市生活者の多くは何らかの生きづらさ、「ここが私の生きるべき场所なのか」という异和感を抱えているのではないか。若い人ならば思い切って海外移住したり、定年后を自然豊かな场所で过ごす人も多いと闻く。だが家族を抱えた现役世代はそうはいかない。疑问符を抱えつつ苛烈な日々に立ち向かうしかなかろう。けれどそのような葛藤は、现代人特有ではない。日本古典文学に见る『方丈记』や『徒然草』の隠栖は、都市を离脱した成果である。さらに隠栖では饱き足らず、何処へともなくさまよい出る者たちがいた。本书にて「漂泊者」と定义した西行や芭蕉、蕉门の异分子惟然(いぜん)や路通(ろつう)、近代以降では自由律俳句の放哉(ほうさい)や山头火らである。それぞれに时代背景は异なるが、彼らは家や家族を捨ててまでも、その漂泊に何らかの自由を梦见た。
本书はフランスの哲学者ポール?リクールの初期の着书『意志的なものと非意志的なもの』が提示する「ためらい」や「非决定」といった概念によって、彼らが梦见た自由とは何かを解釈してみた。例えば惟然は「世の中をはひりかねてや蛇の穴」と吟じた。「世の中」とは急速に経済発展していく近世日本。そこに惟然は驯染めず、かといって隠栖の「穴」に笼ることも洁しとしない。ただただ蛇のごとく这いまわるという惟然の生身の漂泊には、双六游びのようなゴールがあるわけではなく、漂泊しようという意志は「ためらい」から「决意」へ、「决意」から「ためらい」へと几度も揺り戻される。それをリクールは「非决定」とした。けれどこの「非决定」においてこそ、人间は自由なのだとリクールは言う。
以上は本书第1章のさわり。第2章では中国大陆の老荘思想や禅宗が日本の漂泊者に及ぼした影响、第3章では欧米文学も参照し、漂泊者がそこから逃れようとする都市、特に货币経済の発展や烂熟を検証した。
さて本书は、书店の日本古典文学や现象学の棚に置かれているが、西行や芭蕉の研究者や爱好者はリクールなど読まず、リクール研究者も日本古典文学には関心が薄いかもしれない。なのでどちらの専门家でもない私が书いてみた。タイトルが思わせるほど难解な本ではありません。
近藤 祐
彩流社
336页、3,300円(税込)
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。