执笔者プロフィール

八木 雄二(やぎ ゆうじ)
その他 : 東京キリスト教神学研究所所長塾员

八木 雄二(やぎ ゆうじ)
その他 : 東京キリスト教神学研究所所長塾员
今回の本の题名は、はじめて着者の意向どおりになった。原稿を読んだ编集者は、作品の出来の良さは确かと思えても、読者の心を惹く题名はなかなか思いつかないようだった。これまでは、着者の意向は头からはねつけられてきたので少し惊いている。どうやらこれまでの着作とは出来が违うらしい。
ところで、「わたし」という言叶を闻いて最初にイメージするのはだれしも「自分自身」だと言えるだろう。ところが、「わたし」は、人の数だけ居る。そのことについて、じっくり考えたことがある人は、案外に、少ないだろうと思う。
つまり「わたし」は、特定の个体を意味すると同时に、「わたし」と言うことができるすべてに普遍的な(共通な)言叶である。この普遍的な意味のほうを哲学では「人格」とか「ペルソナ」と呼ぶ。
ヨーロッパが近代に个人の尊厳(人権)を民主主义の原点にしたのは、この视点からの中世の神学による「わたし」の思想的深化があってのことである。
地道な哲学の研究だからこそできる重要な社会への贡献があるとすれば、それは何よりも、「ことば」の表面の违いはかならずしも意味の违いではないことを明らかにすることである。
ところで、一般人として「わたし」がものを考える时、「わたし」は「わたしたち」になって物事を考える。したがって社会人としての「わたし」は、もはや真の「わたし」ではない。そして社会がもつ思想的浸透力が个人に対して强くなりすぎる时、真の「わたし」が人々の间から见失われ、个々人の人间力が失われる。
今、さまざまな形で「わたし」が问题にされるのは、现代がまさに「わたし」の危机の时代だからだろう。中世ヨーロッパ、个人に対するキリスト教会の思想的支配は、当然、大きなものだった。そしてそれに対抗する「个人」の思弁が、叁位一体论(ペルソナ论)や抽象认识に対する直観认识として、神学者たちの间で议论されたのである。
ヨーロッパ中世は「歴史の彼方」に置くべきではなく、まさに今こそ学ばなければならない思想的営為なのだと考えている。
八木雄二
春秋社
320页、3,080円〈税込〉
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。