执笔者プロフィール

仓沢 爱子(くらさわ あいこ)
その他 : 名誉教授
仓沢 爱子(くらさわ あいこ)
その他 : 名誉教授
祖国の革命(1917年)のため日本へ亡命してきた白系ロシア人と结婚し、1920年顷オランダ统治下の南国の岛ジャワへ移民した明治の生まれの日本女性、叁轮ヒデの一代记である。异国で农园を切り开き、9人の子供を产み育て平和に暮らしていたが、「大东亜」戦争の开戦、そして日本军による占领で一跃国际政治の荒波の中に放り出された。一家をあげて「祖国」日本に协力するが、日本军が戦いに败れて引き扬げて行ったのちは、戻ってきたオランダによる责めを一身に受けることになった。ヒデ夫妻は、日本の支配下でオランダ人に対してハラスメントをしたとして追及され、有罪判决が出て投狱されたのである。
そのことを记したオランダの文书を偶然文书馆の片隅で见つけたことから、私は叁轮ヒデの存在を初めて知り、この未知の女性に魅せられていった。ヒデの死后20年以上たっていたが、9人の子供のうちただ1人インドネシアに残っていた娘リリーと运よく出会うことができ、そこから15年の歳月をかけ、世界各地に离散していた他の子孙を追いかけて闻き书きを続けた。手探りでその生涯を纽解くと、そこには惊くようなロマンや葛藤や喜怒哀楽があった。
ヒデは、オランダの狱から釈放され、いったん平穏な生活に戻ったものの、オランダを追い出して独立を达成したインドネシアにおける生活は居心地の悪いものであった。スカルノ政権は脱植民地化に向けて燃え滚るナショナリズムのもとで、外国人の资产国有化を行うなど急进的な政策をとり、「よそ者」であったヒデたちの生活も影响を受けるようになった。白系ロシア人の夫とは离婚して、そのまま无国籍になっていたヒデは、オランダ人の青年と偽装结婚してオランダへ渡ったが、そこでも居心地の悪さを感じ、次いでアメリカへの移住を决意する。「私は一体なに人?」という问いに常に突き当たりながら、异国で过ごしたが、晩年になると最后は、彼女が最も辉いていた时代を过ごしたインドネシアに戻る决意をし、そこで86歳の波乱万丈の生涯を终えた。困难に立ち向かい、また「国」という境にとらわれず、グローバリズムを地でいくような先駆的な女性の生き様であった。
仓沢 爱子
岩波书店
252页、2,750円〈税込〉
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。