执笔者プロフィール

平山 周吉(ひらやま しゅうきち)
その他 : 雑文家塾员

平山 周吉(ひらやま しゅうきち)
その他 : 雑文家塾员
叁田文学会理事长であり、厂贵颁の教授もつとめた江藤淳が亡くなってからもう20年がたつ。亡妻の记でもある『妻と私』がベストセラーになっていた涡中の自杀は、各界に衝撃を与えた。「脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に过ぎず。自ら処决して形骸を断ずる所以なり」。遗书には美しい文字で、激しい言叶が刻まれていた。
私はその当日、江藤さんの死の数时间前に鎌仓の御宅にうかがい、絶笔となる原稿を顶戴した。まったく乱れのない完全原稿に満足する担当编集者の私に、江藤さんは问いかけた。「江藤淳のぬけがらになっていないだろうか」。
4年がかりで书いた评伝『江藤淳は甦える』は、あの日なぜ江藤さんは自裁したのだろうという解けない疑问へのささやかな答案である。「ささやか」と言いつつ、本は800页近くに膨れ上がってしまった。调べても调べても、书いても书いても疑问は解けず、江藤淳という不思议な人生の谜は拡がっていった。それは结果的に、戦后の文学とジャーナリズムに残した批评家としての巨大な足跡を确认する作业にもなった。英文科4年生の时に出版した『夏目漱石』以来、40数年间を第一线で书き続け、その间の「疲れ」と「虚しさ」が晩年の江藤淳に堆积していたのは间违いない。江藤淳は叁岛由纪夫に匹敌する戦后日本の最大の批判者に、いつしかなっていた。
江藤淳の人生にとって、「慶應」が大きな存在であったことは執筆中に再確認できた。大学受験時に読んだ福澤諭吉(江藤は卒业生への来賓祝辞では、『学問のすゝめ』から「私立の活計」という言葉を贈った)、文学部1年で同じクラスになった慶子夫人、批評家?江藤淳の発見者である「三田文学」の先輩作家?山川方夫(まさお)。この3人の誰が欠けても、「江藤淳」は生まれなかったと断言できる。
さらには文学部の2人の师の影响も见过ごせない。主任教授?西脇顺叁郎と世界的な言语学者?井筒俊彦である。西脇赏、井筒赏として名前を残す2人の巨人が、ある意味で「江藤淳」を育てたといえる。1人は圧倒的な尊敬の対象であり、もう1人は尊敬と敌意が綯い交ぜになった厄介な存在として。
平山 周吉
新潮社
784页、3,700円(税抜)
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。