执笔者プロフィール

西泽 直子(にしざわ なおこ)
研究所?センター 福澤研究センター所長
西泽 直子(にしざわ なおこ)
研究所?センター 福澤研究センター所長
画像:(别巻函)
2020年に庆应义塾と一般社団法人福泽諭吉协会の共同事业として编集が始まったは、昨年11月までに単行本や诸文集、书简を収めた第1~5巻が刊行され、小幡宛书简や参考资料、年谱、索引を収録した别巻が、遂にこの7月に発刊となった。しかし初の着作集は遅すぎて、『叁田评论』の多くの読者の方にとって、いまだは驯染みがないままかもしれない。
福泽諭吉はアメリカやヨーロッパの文明に直接触れる机会を得て、自身の塾を本格的な学塾に発展させたいと考えた。それにはまず人材である。江戸へ出て6年目の元治元(1864)年、帰省した福泽は周囲の人びとに助言を求め、そこで异口同音に推荐された人物が小幡篤次郎であった。
福泽の求めに応じて入塾した7歳年下の小幡は、その期待に応え、础叠颁を覚えるところから始めて2年后には、なんと学业优秀をもって幕府开成所に英学の教师として雇われるまでになった。福泽の塾においても、自ら学ぶ傍ら、学习上の疑问点から生活面まで、入塾生たちの面倒をよくみた。庆応年间から明治初期に在籍した塾生たちの回想録を読むと、彼の働きぶりがわかる。
庆应义塾と命名され明治を迎えた后も、彼は常に福泽の仕事を支え続けた。教育活动に止まらず、叁田演説会も交询社も时事新报も、小幡がいなければ、现在私たちが知りうるような成果は残っていなかった。それは同时代人の小幡评から窥い知ることができる。
曰く「小幡君の如き汉洋西籍を渉猟せし人を得るにあらざれば、恐らくは叁田大先生の名を今日に全ふすることを得ざるべし」(明治14年6月『新闻投书家列伝初编』)、「小幡君にして无くば、庆应义塾の结果、盖し今日の如き美を见る能はざる也。然れば即ち、今日政治界に立て世事を是非する者、多くは小幡氏の薫陶に依るものなり」(明治15年3月『自由官権両党人物论第二编』)、「庆应义塾あることを知るもの、必ず小幡篤次郎君あることを知り、福泽翁の名を知るもの、谁か君の名を记せざらん」(明治23年3月5日付『朝野新闻』)。
しかしながら现在小幡の知名度は、庆应义塾の中ですら低い。世间一般となるとなおさらで、谁もが知る『学问のすゝめ』初编で、福泽の左隣に「同着」者として名前があがっているにも拘らずである。长年にわたり小幡は「女房役」と位置づけられ、いつの间にか彼の业绩は福泽のそれと一体化してしまった。
明治20(1887)年、小泉信吉を庆应义塾総长として迎えるにあたって、周囲は小幡の心情を虑った。それに対し福泽は、要らざる心配で、小幡を弃てる訳ではなく、二人して大店の隠居になるだけと述べている(明治20年10月1日付中上川彦次郎宛书简)。だが周囲の反応は当然で、若い时から福泽は小幡を頼り、様々な局面で小幡の负担を増やすことで乗り切って来ていた。
福泽はしばしば无茶なことも言う。たとえば、一度教员に採用した础をやっぱり叠に変えたいから础は断れという。小幡はすでに叠の推荐者に先约の者に决定したと告げていたが、叠にするので仲介してくれと頼まなければならなかった(明治15年2月17日付小幡宛福泽书简、2月18日付山田要蔵宛小幡书简)。また奥平家から手当を切られた某について、可哀そうだから元に戻すよう口をきいてやれという。自分が话したいが多忙で「恐缩ながら清襟を烦はす次第」とは本当なのか(明治17年12月30日付小幡宛福泽书简)。
ふと、太宰治の『駆込み诉へ』を思い出す。苦労して集めてきたパンを、奇蹟が起きたかのように人に与えてしまう主に、怨みつらみを述べるユダの话である。しかし决して小幡は福泽とは决别しない。それは小幡に、近代社会に対する确固たる展望があるからである。ただ福泽に追従しているのではなく、叁田演説会にしても、交询社にしても、もちろん庆应义塾にしても、彼の中でその果たすべき役割は明确で、自身がめざす社会を构筑するために、福泽という先达を得て行动しているのである。
小幡は明治初期から、社会の安定には学问が必要で、すべての日本人が智恵を磨くべきであるという。また西洋文明について、风土の异なる土地で长い年月や努力を経て「千磨百练」した结果の种を、日本の地に持って来てやみくもに植えたところで育ちはしない。日本で根付き育つよう、改良が必要であると诉える。彼は外国语を学习する时间がなくても、西洋の情报を得られるための桥渡しを考え、雑誌や演説会、また交询社という、近世には存在しなかった新しい形の组织で、世务諮询のネットワークを広げていく。
『小幡篤次郎着作集』を眺めると、翻訳家として、教育者として、経済学者として、貴族院議員を務める政治家として、様々な小幡の姿が見えてくる。それは、明治の知識人のひとつのあり方を示し、日本の近代を考える上で考察は欠かせない。福澤の影として見ていては理解することができない、近代日本の一側面が存在する。私は小幡の著作集は、必ず近代日本研究に寄与するものと信じている。ぜひ手に取っていただけるよう、図書館にリクエストしていただきたい。むろんご購入いただければ、この上ない幸せである。
蛇足にひとつエピソードを。福澤は故郷中津からの入塾生に学费捻出のため、自身が翻訳した英字新聞の記事を筆写させていたが、翻訳の労を執る自分より筆写生の仕事が遅いことを常に怒っていたらしい(昭和2年2月『福澤諭吉伝』第1巻)。一方小幡は、『時事新報』発刊時に慣れずに遅れがちになる植字工の作業を、夜な夜な手伝っていた。大男が一人交って仕事をしているので、誰かと思ったら小幡であったという(明治38年5月20日付『時事新報』)。上司にするなら……。
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。