执笔者プロフィール

杉江 松恋(すぎえ まつこい)
その他 : 書評家塾员

杉江 松恋(すぎえ まつこい)
その他 : 書評家塾员
たくさん本を読むんでしょう。
そう闻かれるのが実は苦手である。量を夸ることは、読书の质を落とす行為と同义に闻こえてしまうからだ。ページをぱらぱらとめくっただけでも、一连の动作をもって読んだ、と言い张ることはできる。内容の理解が伴わなくとも。
急いで付け加えるのだが、量を読むことも书评家は大事だ。広瀬和生は『落语评论はなぜ役に立たないのか』(光文社新书)でこう书いている。
「例えば、エラリー?クイーンやアガサ?クリスティの生きた时代の推理小説全般には造诣が深いが、近年の作家によるミステリーはあまり読まず、特に日本の作家はほとんど読んだことがない、というような人物が、东野圭吾の数ある作品の中から「たまたま読んだ一册」を论评したとする。「そういう人物の目にその作品がどう映ったか」という意味では兴味深いが、书评としての正确さには欠けると言わざるを得ないだろう」
広瀬の言う「たまたま书评」にも存在意义があると思う。だが、ほぼ同意である。私がいい书评について问われたとき、必ず答えるのが丸谷才一定义で、「内容绍介」「読むに価するかどうかの判断」「文章の魅力」の顺に大事だという(『ロンドンで本を読む』マガジンハウス)。「たまたま书评」はこの2番目が駄目なのだ。その手の本をあまり手に取ったことがない人の判断を読者は必要とするだろうか。否である。
书评家にとって最も大事なのは読者から信頼されることだろう。この人のお荐めなら読んでもいい、というお墨付きを得ることが、书评家にとって唯一の免状である。少しもいいと思っていない本をわずかな金のために褒めるような提灯书评が论外なのは、この信頼感を里切るからだ。せっせと読むという経験を积み上げていく以外に信頼を胜ち取る道はない。ということは量は重要なのである。书评家なら読めるだけ読め。
と言いながらさらに付け加えるのだが、それでも量を夸ることへの抵抗が私にはある。庆应义塾大学文学部の指导教员だった故?大渊英雄から突き付けられた一言が忘れられないからだ。
あれは3年次のときだったと思う。大渊の书棚から学生には高くて买えない本を借り出した私は、早く返さなければという思いから集中して読んだ。忘れもしない网野善彦『日本中世の非农业民と天皇』(岩波书店)である。それこそ电车移动の最中にも手放さず、自分としては惊异的な速さで読んだ。その代偿としてかなりぼろぼろになってしまった网野书を返却した私に、大渊英雄は言ったのである。
「电车の中で慌ただしく本を読むしかない生活の贫しさを知りなさい」
仕方ないじゃないか、时间がなかったんだから、と当时は思ったが、今となっては真意がよくわかる。読めばいいわけではないのだ。じっくりと向き合わなければならない読书というものもある。だから今も、私は基本的に外出中はあまり本を読めない。基本は机に向かって読む。
抽象的な表现になるが、本と向き合う态度の诚実さなのだと思う。回り回ってそういう结论に到达した。それは书评家としても実践していることである。结论を先に决めて読まない。私の得意分野は大众文学の中でもミステリーである。その中に「本格ミステリー」という呼称がある。谜解きの论理性を主たる関心とするものを指すサブジャンルだが、私はこの「本格」という呼称を使わない。本格があればそうではないものもあるわけで、読む前からレッテル贴りをしているような気がするからである。これに限らず、ジャンル内でのみ通用する概念は可能な限り排し、可能な限り一般文学に近い视点から作品に当たることにしている。
内容本位で読み、周辺情报で判断しない。たとえば作者がこの人だからこういうことを书いたのだろう、という解釈をしない。それは先入観に导かれた结论だからだ。主题に囚われない。作品によっては、先端的な社会问题が扱われていることがある。それは作者にとって重要なものであろう。书くことに意义を见いだしているのかもしれない。だが、その主题が扱われていることと、小説としての価値は别なのである。あくまで小説としてどうなのかということだけで判断し、他の要素では作品を评価しない。私に可能な精一杯の诚実さとはそういうことである。
ある时期まで、読者に対する诚実さを保つためには自分はミステリーというジャンルの中だけで活动すべきだと思い、実践してきた。最近になって考えを変え、隣接领域について知らずにそのジャンルを正当に评価できるだろうかと考え、読む本の领域を一気に拡大した。おかげで今は、かなりの本を読まなければならなくなっている。
でも、たくさん読むんでしょう、とは闻かないでもらいたいのである。そうは読みません、読めるだけの本しか。
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。