登场者プロフィール

堀 茂树(ほり しげき)
その他 : 翻訳家その他 : 名誉教授
堀 茂树(ほり しげき)
その他 : 翻訳家その他 : 名誉教授
迷走を繰り返すうちに齢を重ねてしまった。近顷は、満开の桜を目にするたびに、自分はあと何回この季节を迎えるのだろうかと自问する。
とはいえ、幸か不幸か、私にリタイア気分はまったくない。昨今のように劣化した日本国を次世代に残して去るわけにはいかないという思いが强く、その思いに重なるかたちで、现代フランスの思想?文学?社会の変貌をもっと正确に深く认识したいという欲望に駆り立てられている。长年アンスティチュ?フランセ东京(旧称?东京日仏学院)で担当している文艺翻訳クラスでは、フランスの若手小説家たちの意欲作を取り上げている。自らセレクトして邦语訳を出してきたのも、主に现代の作品である。このように、私の知的関心の焦点は同时代にある。纯粋の学者気质から程远い私は、厳密な意味では无私でなく、自分自身の実存のフィールドを、すなわち「今、ここ」の现実を理解したいのである。
问题は、「今、ここ」に密着していて、「今、ここ」が理解できるかという点にある。いうまでもなく、事件の现场にいれば真相が摑めると思うのは甘い。现场にいなければ知り得ぬこともあるが、现场にいるがゆえに気づかぬこともある。「时代と添い寝する」などという诱惑的な表现があるが、「添い寝」したって、不透明なものが透明になるわけではない。対象が见えるのはむしろ、少し退き、対象に対して距离を置くときである。また、见ようとする自分自身からも距离をとらなければ、人は自分の见たいものだけを见てしまう。さらに、対象を理解し、判断し、评価するためには、その対象の外に何らかの基準や规準を保持していなければならない。この意味で一般に、人间世界の现在=「今、ここ」を理解するには、それを歴史の中に捉える必要があるといえる。
しかしながら、「今、ここ」は、まるごと完全に歴史に支配されているわけではない。とりわけ芸术や文学は、科学や技术のように歴史とともに进歩するものではない。そもそも美の创造の领域に进歩の概念は适合しないのであって、そこに有効な基準や规準を提供してくれるのは、歴史に想定されるある种の必然性ではなく、过去に生み出されて今日まで残ってきている杰作、すなわち古典の数々にほかならない。
これはいわゆる「古典文学」のことではない。「古典文学」は西洋では古代ギリシア?ラテン文学の谓いで、日本では江戸时代までの文学作品を指すが、ここでいう「古典」は、歴史的価値というより、恒久的で规范的な価値、いいかえれば歴史の事実性を超える価値を认められるに到った作品である。具体的には、西洋文学ではホメーロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』を嚆矢とする名作の数々だ。これを味読することは、文学の现在=「今、ここ」を正しく理解するためにも有益な回り道である。たとえばG?スタイナーや、S?レイスや、T?トドロフといった、今は亡き「読むことの师匠たち」は、この回り道を惊异的な健脚で踏破していた。教养として共有される古典こそが、表现の型や作中人物の典型など、多くの确乎たるリファレンスを与えてくれるのだから、その存在意义は、主要な関心が同时代に向かっている私のような者にとっても大きい。
その上、古典にはもう1つ、より一层の注目に値する教育的効果がある。その効果は、逆説的なことに、古典がけっして身近な作品でないという事情に由来する。たとえば、ソポクレスの『』は纪元前5世纪にアテナイで生まれた。今日の日本で暮らすわれわれから言えば、约2500年も前に地球の真里で初演された戯曲なのだ。当然、主人公オイディプス王の人物像は、われわれの日常世界から隔絶している。それでいて、自ら両眼を抉ったこの人物がテバイの町を去る前に垣间见せる2人の娘への爱情は、われわれの胸をもまっすぐに贯通する。このように古典は、同时代の身近な人の手に成った作品ではないからこそ非常にしばしば、「自分とはまったく别の人间存在の身になって思考すること」(カント『判断力批判』)を通して、読者を自己中心性から解放し、普遍性の地平へと导くのである。
というわけで私は、主に现代文学を扱う翻訳者でありながら、若い学生には常に、当たり外れの多い现代の作品より、まあ骗されたと思って定评のある古典を読めと荐めてきた。庆应SFCに奉职していた时期には、「西洋思想の古典を読む」と题する研究会(ゼミ)で、モンテーニュ、デカルト、ルソーなどを轮読していた。また、讲义科目「古典と现在」を担当し、『アンティゴネー』をはじめとする古代ギリシアの悲剧、あるいはヴォルテールの『』、バルザックの『ゴリオ爷さん』、オーウェル『1984年』、ハクスリー『素晴らしい世界』、プリーモ?レーヴィ『これが人间か』、イヨネスコ『犀』等、定番の杰作を大教室で评釈した。
当时、私のゼミや授业の机会に、「骗されたと思って」自らも古典の中に潜ってみた学生诸君の多くが、イマヌエル?カントの所谓「开かれた思考」に开眼してくることがあったとすれば本懐である。
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。