执笔者プロフィール
斋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)
横浜初等部教諭斋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)
横浜初等部教諭
福澤諭吉は、『福翁自伝』の中で、中上川彦次郎 (なかみがわひこじろう)のことを次のように紹介している。「彦次郎はわたしのためにたったひとりの甥で、彼方(あちら)もまたたったひとりの叔父さんで、ほかに叔父はないから、わたしもまた彦次郎のほかに甥はないから、まず親子のようなものです」。福澤は、中上川のことを親愛を込めて、「彦さん」と呼んでいた。
我辈とクールスを共ニいたし度
中上川は、安政元(1854)年8月、豊前国中津の金谷森ノ町に中上川才蔵、婉(えん)の子として生まれた。才蔵の家禄は13石3人扶持、婉は同じ中津藩の下级武士であり13石2人扶持の福泽百助の次女、諭吉の姉である。婉は、怜れみ深い性质で、中津时代には、生活に穷する家に味噌や饭米を持たせ、晩年は、キリスト教信者となって古着を孤児院に赠るなどしたという。
家系にまつわる后年の逸话を绍介しよう。叁井家が宫内大臣土方久元を招待した会食の场で、土方が自らの系図を自慢げに语り、一座の人々の系図に兴味を示して寻ね回った。土方からその系図を问われた中上川が真面目な颜で、「私の先祖は相扑取りで中上川といったそうです」と答えたので、盛り上がっていた系図谈义も话の腰を折られ、一座白け渡ったという。中上川には、「ユーモアとしては、少しく毒気多い警句を吐」(高桥义雄)く癖があった。
中上川は、中津で汉学を学び、藩校进脩馆の教员として採用されるが、明治2(1869)年になって念愿の东京留学を藩から认められた。このとき福泽から、大阪の山口良蔵に宛てた书简には、「中上川彦次郎义、不一方御约介罢成、本月8日小幡英之助同道ニ而着府仕候。御礼申上様も无之次第、诚ニ难有奉存候」(书简68、本月は5月を指す)とある。山口は、福泽の适塾时代の同窓で、中津を出て数カ月大阪に滞在した中上川の世话をし、英语の手ほどきをした。中上川と同道した小幡英之助は、小幡篤次郎の従弟で、のちに西洋歯科医の始祖と呼ばれた。庆应义塾に入学し童子寮に入った中上川の印象を先辈の门野几之进(のちに千代田生命保険を创立)は、「见るから田舎然たる、至极瘦せ型な少年」であったと语っている。
明治4年に郷里中津に市学校が设立されると、中上川は、小幡篤次郎、松山栋庵とともに教師として派遣された。中上川が中津に赴任中の翌年5月にたまたま上京していた父才蔵が他界、直後に中津を訪れた福澤とともに母と妹2人を連れて7月に帰京することになった。さらに福澤の推薦で、神山県(愛媛県)の宇和島に設立された洋学校に8カ月ほど赴任した。その任を終えようとするときの書簡で福澤は、「唯有眼の人物ニして、始て読書中ニ商売を為し、商売中ニ書を読ミ、学而富ミ富而学び、学者と金持と両様の地位を占メ、以て天下之人心を一変するを得へきなり」として、「我辈とクールスを共ニいたし度、深く希ふ所なり」(書簡147、クールスはcourse、進路)と中上川に強い期待を寄せている。
新闻纸を発行せん
福泽は、早い时期から子どもたちを海外に留学させたいと思っていたが、着作翻訳业でまとまった贮蓄ができたことから、それが现実味を帯びてきた。子どもたちの前に白羽の矢が立ったのが、中上川である。中上川は、明治7年10月、小泉信吉(纪州徳川家から给费を得る)とともに仏国汽船でイギリスに向かった。3年ほどのロンドン滞在中の日记は関东大震灾で失われたが、ロンドンで见闻を広め识见を加えたことが、常识にとらわれず新机轴を打ち出していく中上川の土台になったと想像できる。同时に、伟大な叔父から离れたことも、中上川の个性を完成させるうえで重要であったと笔者は考える。もう1つ、中上川にとって重要だったのは、长州阀の井上馨(かおる)と知り合ったことである。大久保利通が急逝したとの知らせを受け、急遽帰国した井上は参议兼工部卿に就任し、中上川を御用掛(秘书の役割)に起用した。その后も、中上川に活跃のステージを提供するのは、福泽ではなく、井上であった。
工部省に入省した翌年、中上川は、旧福井藩士江川常之助の長女勝と結婚する。この縁談には、中上川より前に江川家に結婚を申し込んでいた同藩士で2000石を食み家老職を務めた武田家の子息という強力な競争相手がいた。江川家との間を取り持った酒井良明、猪飼(いかい)麻次郎の両名に宛てた書簡は、江川家の身になって婿選びをすると、家柄格式、当人の人物などを武田と比較して4敗3分けになるとしたうえで、「味方に勝算あるべしと信ずる事は、酒井君の助力なり」と力添えを頼み、「戦敗れて虜となり、赤恥をかかばかけ、人の笑ひは何のそのと身構へなし、一合戦致し度」と、中上川らしい冷静な分析と不屈の精神が漲(みなぎ)っている。のちに時事新報と三井で中上川と机を並べることになる高桥义雄が三田の中上川家を初めて訪問したのは、結婚直後のことで、「夫婦がお雛様の如く並んで居る所は、傍の見る目も羨ましい程であった」という。中上川の女性に対する態度は、福澤同様で、妻を「お勝さん」と呼び、旅行に同行のときは、勝の荷物を随行員に持たせることなく、自ら持ったという。
井上の外務卿就任とともに、中上川も外務省に転じ、昇進を重ねて権大書記官(総領事になれる等級)となるが、明治14年の政変の煽りを受けて退官する。政府から離れた中上川が次に情熱を傾けたのが、時事新報の経営である。政変を受けて、福澤が進めていた新聞発行も見合わせとなっていたが、中上川の「落胆立腹一方ならず」、「頻りに福澤先生に向て、約束の通り、新闻纸を発行せんことを以てし、漸く其承諾を得て」(明治20年1月1日、本山彦一宛書簡)、明治15年3月1日、政府政党とは距離を置き「独立不羈(どくりつふき)」を掲げる時事新報が、その第1号を発行した。時事新報が福澤の新聞であるのは、誰もが認めるところであるが、社長には27歳の中上川が就いた。創業間もない、まだ社屋が三田にあったころ給仕のような仕事をしていた西谷虎治によれば、「一番怖い先生は社長の中上川君であった。岡本君あたりが、おい中上川君などと声を掛けても滅多に返事さへしない。きちんと端座したままで壁に向いて黙って始終何か書いている」という様子であった。
新闻経営に広告料が重要であることに目をつけ积极的にこれを进めたのは、中上川であった。中上川は、広告するなら日本一の时事新报に限ると书かれたビラを结び付けた风船を社屋から放ち広告を増やしたという。国际ニュースの报道を重视し、これを时事新报の売りにしたのも中上川である。时事新报は、着実に部数を伸ばして5年目には东京で発行する新闻社の3位につけるまでとなり、のちに様々なアイデアで新闻业に先鞭をつけ、「日本一の时事新报」と呼ばれるようになる新闻社の基础を筑いた。
中上川なくして独歩は少々不安心
时事新报が、新式印刷机を导入して、社业を拡大しようと南锅町(现在の银座)の交询社隣に新社屋を移転した矢先の明治20年3月、中上川は时事新报を去り、山阳鉄道会社の社长に就任する。その経纬は、次の通りである。
山阳鉄道は、神戸から下関までの鉄道(现在の闯搁山阳本线)を敷设する会社として叁菱と大阪财界の大御所藤田组の藤田伝叁郎らが设立を进めていた。叁菱の荘田平五郎から支配人の打诊を受けた中上川は、「右の次第を福泽先生へ申出で、裁可を仰ぎし処、先生の许可ありし」となり、意欲を示した。ところが、大阪で藤田のもと働いている本山彦一(のち大阪毎日新闻社长)に、その意志を伝え、藤田の意向を确认すると、藤田に异存はないが兵库県知事に意中の候补者がいることが判明した。藤田、荘田らによる神戸の会谈では、中上川の支配人就任は不调に终わったが、本山からその情报を入手した中上川は、いち早く次の一手を打った。外务大臣井上馨に手を回したのである。井上に呼びつけられた知事は、その场で自らの案を撤回し、ここに中上川の社长就任が固まった。その后も中上川に隙はなかった。兵库県知事に挨拶に出向き、翌朝には「鉄道の父」と呼ばれた井上胜鉄道局长官と面会し、「足下(中上川)自から其事に当らんとならば、拙者は大にこれを賛成すべし。ただに賛成するのみならず、力の及ぶ限り助力世话すべし」との言叶をもらっている。
一方、中上川からの相谈に、「随分面白き事に付、従事可然旨申置候」と、やってみたらいいと勧めた福泽である。福泽の本山宛て书简では、「ほんとふに相成候ときは、新闻社は如何可致哉」、会社全体の监督や会计を任せる人材は、まだ若く、「中上川なくして独歩は少々不安心」(书简1133)と、その胸中を明かしている。
社长に就任した中上川は、家族连れで神戸に赴任し、翌21年までに兵库?明石间を开业、23年に神戸?冈山间を全通させた。中上川は鉄道建设に関する最新の书籍をロンドンから取り寄せて熟読し、技师の设计书にも意见を述べ、技师が自説に固执するようならば、「贵方の意见は古いようです。ここにその本がありますから、持って行って読んでご覧なさい」と勧めたという。中上川の経営者としての姿势は、福泽の言う「天下之人心を一変」させる人物像を実践するものであった。
中上川の鉄道経営で特笔すべきことは、开业前の资金的に困难な时期においても、有力株主の反対を押し切り、长期的な视点に立って积极的な设备投资を行ったことである。その具体例を3つ挙げると、1つは、将来の复线化や駅前広场整备を视野に広く用地を购入したことである。2つ目は、将来の运転増强、速度の向上を优先し、线路の勾配を100分の1以下とし、曲线半径を缓やかにすることに彻底的にこだわった。工费削减を优先するならば、トンネルは短くした方が良いが、中上川は、最新の掘削技术を导入してトンネルを长くし、缓勾配を実现した。技师たちは、100分の1にこだわる中上川のことをワン?ハンドレットと绰名していた。3つ目は、イギリスから最新の车両を购入し、安全を最优先に高性能のブレーキを採用したことである。ちなみに、汽车の支配人を「车长」と呼ぶと「社长」と音が同じで纷らわしいとして、「车掌」としたのも、中上川である。このような积极施策の结果、设备投资がかさみ、株主からの批判が强まったため、中上川は4年余りで山阳鉄道会社を退任する。中上川の先见の明が証明されたのは、彼が山阳鉄道を去って数年后のことであった。
(次号に続く)
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。