画像:北本正路氏の箱根駅伝区间记録メダル(1931年)(北本正旻氏寄赠、庆应义塾福泽研究センター蔵)
2021年1月、第97回箱根駅伝において、塾竞走部の杉浦慧君が関东学生连合チームの主将として往路5区を力走した。塾生の箱根出场は、関东学连选抜/学生连合で81?82回の亀田健一君、94回根岸祐太君に次いで3年ぶりであった。残念ながらチームとしての出场からは4半世纪以上远ざかっており、直近3回は、いずれも出场枠が拡大された70回(1994年)、60回(1984年)、50回(1974年)となっている。
箱根駅伝は、狈贬碍大河ドラマ「いだてん」で一跃名前が知られるようになった金栗四叁の発案で计画され、第1回は1920年2月に开催された。参加校は早稲田、明治、东京高师(现筑波大学)、そして庆应の4校。沿道に観戦者はほとんど无く、午后1时にスタートし、4区で日没。闇の中、自転车で伴走するマネジャーが提灯を买ってきたり、地元青年団がたいまつを掲げたりという中で、山岳部主将でもあった二木谦叁が5区を走って往路4位でゴールしたのは夜10时前。翌日も夜が明けぬうちにスタートする厳しいレースで、総合でも4位という初阵だった。
以后、戦前には22回开催されたうち、庆应は18回出场しており、戦后も12回出场(そのうち1956年の予选会开始以降は6回)、通算で30回を夸る。実は、予选败退ではなく不参加を选択した年も少なくなく、それは冬期のロードでの无理な竞技がトラック竞技のシーズンに悪影响を与えるという判断であった。
塾竞走部の箱根の黄金时代は、アムステルダム(1928年)、ロサンゼルス(1932年)、ベルリン(1936年)の3つのオリンピックに中长距离选手として津田晴一郎、北本正路、竹中正一郎、今井哲夫を辈出した顷であろう。庆应唯一の総合优胜を果たしたのも1932(昭和7)年の第13回大会のことで、特にこの时、主将北本の10区の走りは、箱根駅伝史に残るものだ。
水色だった庆应の襷(当时は「緑」と表现されている)を、トップから6分29秒差の3位で引き継いだアンカーの北本は、六郷桥付近でまず早稲田をとらえて2位に浮上、先头を走る日大を猛追して、ついに芝増上寺前で抜き去り、优胜を果たしたのである。2021年、10区で创価大との3分以上の差を逆転した驹泽大の走りは、89年前のこの逆転剧以来と报道された。
塾竞走部は、箱根への出场、そして胜利を期待されるだけではなく、いかに庆应义塾らしく戦うかも求められる。他校に倍するその困难を越えて、大手町のゴールテープを切る日を、社中は静かに热望している。
(庆应义塾福泽研究センター准教授 都仓武之)
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。